脱構築について、私見

脱構築とは、すなわち構造主義の手法である、峻厳な二項対立を否定するものではあるが、第3項を提示するものではなく、峻厳な二項対立をより緩やかな二項対立へと変容させるものである。つまり、二項対立の前提の中には含まれず、二項対立の解釈からははずれるもの、たとえば男・女という二項対立的コンテクストの中でジェンダーの問題、性同一性障害の問題などを、二項対立の前提に加え、その構造を変容させる学問的営みのことである。そのため、二項対立それ自体の否定は行われず、むしろその二項対立が捉え切れなかった問題群を踏まえ、更なる学問的正しさを追及した二項対立(理論)の構築を目指すものであり、構造主義を補完するものである。
 このことを踏まえれば、脱構築のコンテクストから生まれる脱近代の思想が、私のような近代性を否定する立場をとり得ないことはいうまでもない。そのため、この点において、ポストモダニズムは後近代であり、近代の補完であるとも言える。このことは、いまだ近代性を否定する土壌が形成されていないために、我々が近代のパラダイムからさえも脱却できない現状を示している。その脱却には新たなる理論が必要であるのだろう。ただ、ポストモダニズムの思想が隆盛し、かつそのために近代の問題群を超克できない現在、私の研究姿勢として、近代的な合理性を追求する理論的構築が不可欠であろう。

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 二項対立という枠組みは残しつつも、その前提の中に様々な背景を取り込む作業。こういった二項対立の前提を掘り崩そうとしつつも、その秩序を破壊することが目的ではない、学術的営みを脱構築というのだろうというのが現在の私の認識である。