近代についてのイメージ(肉屋以降考えたことのまとめ)

 近代についての文献を読んでおらんので、あくまでイメージを。これから本を読むときの問題意識として。

問題意識:近代合理主義への批判(ここでは物心二元論への批判)、「個人」はどうやって生まれたか?
 
脳死・臓器移植問題を取り上げたときに、デカルトのコギト・エルゴ・スムから始まる理性への崇拝とそこから生じた「身体と精神は別物である」とする物心二元論からこの問題を解した。そこでは、脳死とは脳(=精神)が死んだ状態(考えることができない)なので、「精神」のない「身体」は「個人」としての権能を持たないため、「身体」の分割である臓器の移植は合法であると。ここで浮かぶ疑問としては、精神は身体を必要としないのかというものである。飛躍していうならば、脳さえ生きていれば身体が無くてもよいのかというものである。そこで私の考えとしては、「精神」でさえもそれが属する「身体」の感覚によって支えられており、「身体」が「精神」を形成していく面があるため、そもそも的な物心二元論が成立していないと考える。

 論点提起
2人の人(A・B)がいる。この二人の頭部を入れ替える(「精神」のみをもう一方の「身体」につなげる)。数日後、元に戻す。
論点:数日後元に戻したときのこの二人の人(A・B)は、入れ替える前のA・Bと同一人物か?

②「近代」または「個人」はいかにして発生したか?自然発生的でないのは明らか(自然発生的であればその前は存在しないと考える)であるが、それは宗教(キリスト教)・伝統的慣習などからの解放、そして自然科学的合理性の追求といった前近代への批判及び否定の結果ではなかったか。つまり、キリスト教世界観からの脱皮(例:地動説)であり、聖権力からの自由な個の解放(例:宗教改革プロテスタント)である。だが、近代から現代に至る過程において、そこでの批判及び否定が相対性を欠くようになり、それ自体が絶対化してしまった(理性の絶対化、自然科学の宗教化)ために、合理性の追求が逆に非合理的な結果をもたらすようになった。ホロコーストヒロシマも、文明が合理性を追求したにもかかわらず、逆に非人道的な(野蛮な)大量殺戮をもたらすような非合理性が露見した例としてあげられるのではないか?近代の陥穽について考える必要がある。