2050年、人口100億人(推定)

 「100億」人なんて数字考えられますか?「100億」円やったら、まだなんとなく想像できそうな感じですけど、あまり想像力ない自分は「100億」人もいる世界のことを考えることは難しいです。この問題も、「実際に起こってみりゃわかる」的な、責任無いのも甚だしいような考えをしてしまうのですが、どうなんでしょう?
 まぁ、このような想像力のないヒトタチが増えてるわけですが(問題がでかすぎるのか?)、実際に「100億」人という実態を捉える場合、「100億」という数字は客体であっても、「100億」人というものを捉え解決策を模索すると、この「100億」は主観に基づいた数字の大きさの判断が必要なわけであります。研究者であっても、この「100億」の数の問題性について意見を同じくすることもあるでしょうが、この「100億」がどれほどの問題を引き起こすような数かということについては、一致した見解など取れるものではないからです(全員一致したら怖いことこの上なし)。

 ワタクシはここで主観と客観のことをお話したいのであります。
今回証明していきたいのは、客観は主観を基に組み立てられたものであることであります。ワタクシは、「明確に、主観があり、客観がある」といった二分論的な考え方を必ずしも好むわけではないので、ここでは、自分でもわからないような主観とか客観とかの意味を提示できるとは思えませんが、まずそこから行きましょう。

これらが一般に承認された意味ではないと思いますが以下に述べます。

主観=自ら目・脳が認知できる範囲内で、物事を見ること。

客観=(自分)相当な数の人がある物事の見方が自らの主観に適合すると捉え、かつそれが物事の一面のみを説明するものではないこと。
(一般的?)主観の反対、主観を排したもの、普遍的な真実を導くもの、普遍的なものの見方・考え方。
 
現代国語例解辞典を引くと
「主観」=①体験し表象し思惟し認識し感動し意志する存在。主体。また、その意識。
     ②自分ひとりの考え方。
「客観」=意志や認識などの精神作用が目標として向かう対象。また、主観と独立して存在する外界の対象。


一般的に、主観を排した客観的な「真実」は存在すると仮定される。例えば、万有引力。これはニュートンが定義した自然法則で、地球が太陽を回ることや物が「下」に落ちることなどを多くの自然現象を証明し、客観(客観性)を帯びていると考えられる。が、しかし、全ての事象を証明するわけではないことも、理解されうるだろう。それはアインシュタインが「相対性理論」を発表し、宇宙にゆがみがあること、ニュートンの法則の修正が行われるべきことを証明したからである(間違ってたら指摘してください)。このことを、ニュートンの発見した万有引力の法則が客観的な「真実」であるといえるか?いえないだろう。そこは個人の判断に任せるが、注意したいのは、これらのことも、人類がこれまで認知してきた範囲内のことである。今まで客観的な「真実」、つまり主観を排除した「真実」は存在し得なかったといっても良いだろう。

〜〜〜〜疲れたために論展開が微妙になってまいりました。おやめします。続きは卒論にでも書こうかと思ったりもするわけで。〜〜〜〜〜〜〜

補論

古今東西、遠く異朝を訪えば、ソクラテスというお人が「無知の知」ということを言ったそうです。これは、ある意味、「思想的」に、逃げなわけでありますが、ここでワタクシが「わからん」というのも、その教えに従うものであります。まぁ、学問を志すものとしては、自分の認知の程度を決めることは重要だと思うわけです。「ここまでが主観的な判断に基づいた論理ですよ」ということは、後世にも伝承していくことができ、その客観的な判断も仰げるんじゃないかとおもうわけで。論点整理が大事になってくると。

ま、この後の結論としたかったのが、
『自分の認知の範囲で物事を考えていた、まさにそのことをして、(今まで進めてきた論理が)「主観であって客観ではない」と言えないことがわかるでしょう。』
なんですが。。。全部後付+後片付の思いつきで書いてしまいました。暇があったら書き足します。