朝四時にて「不自由論」を読む。

サークル飲み明けで、眠い目をこすりながら読むよりか、いっそのこと寝ちまえ〜なノリで、0時ごろ就寝。4時ごろ起床。この勉学に適した生活リズムは守って日々を生きていきたい。
プロローグと第一章を読む。

 プロローグでは、筆者の問題意識である、たとえばゆとり教育議論の中で問われる生徒の主体性といった、近代的な自由な主体の概念の中で感じられる論理の矛盾を諸事象から考察し、主体性・自立性・自己決定に批判を加えている。
 第一章では、自由な主体としての人間、その人間がもつとされる人間性humanityへの批判を加えている。まず「人で無い」人を切り捨てる「排除の論理」についての問題提起を行い、その「排除の論理」が本来の人間性の本質さえも見失う過程を説明している<①>。つぎに、その人間性の限界について考察を行っている。前世紀において、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺や、広島・長崎への原爆投下などに見られるように、近代の人間性や「合理」的とされた理由により、生物としての人間が本来的に持つ野蛮性を如何なく発揮した。私自身としては、この「合理」的とされる理由に基づいた野蛮な行動の回避のために、合理的でない選択を行えば回避できると安易にも考え、「合理」的な理論の形成を怠ってきた<②>。こういった姿勢に著者は一定の批判を加えていると感じている。「人間」とは言っても、その実は、人間性という仮面personaをかぶった野蛮な動物であり、その仮面personaを脱ぐような行為、自らの例でいえば他者との議論に耐えうる合理性を求めず、自らの本音である非合理性の世界の中に安住すること、はすなわち野蛮性の発露であり、本来の人間性をも失わせ、「無限の野蛮へと向かわせる」行為である。ここで、著者はアーレントの3つの著作から彼女の理論を引用し説明を加えている。この中で興味深かったのは、人間性についての、相互にコミュニケーションがなされる、すなわち議論がなされうる、多元性の保障が人間性を支えているという彼女の主張である。この点については、アーレント著『人間の条件』を一読してみたい。

以下、この1週間のゼミへの取り組みの方針を含め、記述。
<①>・・・その中で挙げられている、二項対立的思考法を解体しようとするジャック=デリダの「脱構築」の部分に関心があるので調べてみたいと思った。というのも、高校の現代文の時間に、二項対立の図式で文章を読まされ続けたが、そこに論理的説明が一切なされなかったため、そこで得られた知識・理論を人に説明できず、それらを大学に入ってから新たに認識している最中であるからで、今後このデリダの理論に触れることで、その授業の意味も少しはわかり、自らの思考の体系化にも役立てていくことができると考えている。

<②>・・・そのために現在の自らの研究力量に、一定の疑義を向けられるべきことは理解するし、理解している。一定、そこで得られた考察としては、認知の枠組みから考えるに、その合理性・客観性さえも、自らの目や記憶といった認知の範囲でしか構成できないということであり、当然のごとく、無意識となっている部分からは論理を構成できないということである。このことは以前にもここに書いた通りである。そのために合理性・客観性およびそれらの普遍性の問題、認知科学についての興味関心を満たしていきたい。